ボールは丸い

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私の書、「青春ピカソ」と岡本太郎

私が岡本太郎をというより太陽の塔と初めて出会ったのは、大学4年の夏、総理大臣杯で大阪に試合をしに行った時だった。4年ぶりくらいの夏の全国大会出場で、とても誇らしく、気合十分で大阪入りし、J-Green堺で試合をするのに、万博公園のすぐそばの阪急ホテルに泊まった。

結果的に、初戦であっけなく負けて、太陽の塔にお別れを言って東京に帰ることになった。太陽の塔は、こころなしか、しかめっ面になっていた気がした。

 

それから私は、大人になり、ジエブでの仕事で、2年目くらいから月1で大阪出張をするようになった。お前は大阪支部か、と言われるくらい、いろんな試合で行くようになった。吹田サッカースタジアムができたのは私の2年目の12月。翌年の2016年は、何度も何度もあのスタジアムに通ったせいで、太陽の塔の顔を毎度拝んでいた。

やっぱり不気味で、太陽の塔はいつも表情を変える。

うん、科学的にいうと、私のコンディションが違うから、顔が違うように見えるのだけれど、それが芸術であり、岡本太郎の言わんとしているところなのかもしれぬと思っている。

思い起こせば、2016年CWCの日の太陽の塔は雲一つない青空で笑っていたような気がする。VARの記念日の日だ。私が仕事で最後に見た太陽の塔だ。

 

その少し前、2016年11月、100歳で亡くなったひいおばあちゃんにさようならを言いに、甲子園に行った。100歳の生涯を力いっぱい生きて、こんなにぎやかな家族を残してくれた、そして人との付き合いを忘れない彼女の姿に、私の前には太刀打ちのできない何か大きなものが残った。

須磨のおばあちゃんの(今はおばであるじゅんちゃんが住んでいる)家に泊まって、古い本棚にいい本がないか見ていた。岡本太郎「青春ピカソ」。古くて汚い本を見つけた。変なタイトルだけど、岡本太郎気になってるし、めっちゃ面白そうと思って持って帰った。

でも私の性格上、部屋に放置してなかなか読まなかった。

 

仕事を辞める決心をして、最後のJリーグ出張。岐阜だった。

岐阜の田舎にあるスタジアムで簡単な仕事を終えて、スタジアムをぐるりとしていると、ああ、こんなところにも、変なモニュメントがある。ああ、なんでまたここに。

岡本太郎のモニュメントだった。あまり、意味とかがわからない。でもこの運命的な巡り合わせにひれ伏し、ため息をすることしかできない。

 

4月、スペインに行く前、フライトで読む本を探した。部屋に、いい本なかったっけ。たまたま弟の本棚にあった「サッカー代理人」byロベルト佃さんと、あ、と思いだした「青春ピカソ」をカバンの中に入れた。でもフライトでは、スペイン語の勉強と、読みやすいサッカー代理人を読んで、青春ピカソには触れなかった。

 

マドリッドで、やっぱりまたゲルニカを見たいなーと、あと、母と何年か前に泊まったホテルアポロとアトーチャ駅周辺に行きたいなと思って、ゲルニカを所蔵しているレイナソフィア(美術館)いってみた。チケット高かったら入るのやめようという心持ちで。やっぱり10ユーロは超えてたので、やめた。今日これからなにしようかなと、レイナソフィアの前で待っているとイタリア人カップルが「割引券余っちゃったんだけど、いらない?」と。え!それなら入りたい。と。でもピッタリなかったから一度断ったのだが、彼女たちはおつりを作って戻ってきた。引きがすごい。神が、今、ここに入れと言っている。うん、たしかにテンポラリー展示でゲルニカの特集をしていた。引きがすごい。今、見なければいけなかった。

 

別の日、1人でご飯を食べたりカフェにいてもつまらないので、本を持ち歩くようにしていた。まだ、読んでいなかった「青春ピカソ」。サンミゲル市場の近くのトルティーヤ専門店があるから、夜の街に繰り出す前に腹ごしらえをした。とても気前がいい店員ばかりで、1人で食べるのも全然嫌ではなかった。うますぎるトルティーヤとサングリアをたしなみながら、青春ピカソを読むと、心臓の鼓動が激しくなる。焦ってサングリアを飲んでいると、グラスがあっという間にカラになったことに気付かない。岡本太郎が書く、あの激しい、直接的な言葉の一つ一つが私の心をとらえてくる。こんなところで、何を。と自分でも驚くほどに。本を読んでこうなったのは初めてだった。

 

そして、帰国後、ピカソの思想に似ている人がいたので、青春ピカソを渡した。ヘルシンキのお土産と共に。すべての物質はエネルギーと情報でできているらしいから、本にも何か魂があるのであって、さらに言えば、岡本太郎の言葉自体にも。

 

数か月たって、青春ピカソを返してもらうことにした。私がこれと共に、次のステップに進むためにね。これを思いだしたのも、ありさが貸してくれた若林の本に岡本太郎のことが書かれていたからだ。

ああ、今この文章を書いていたら、VAR記念日。太陽の塔と最後にあってから1年の日になってしまった。

 

本には魂があると思う。本を読んで、過去の人の思想を知り、その人と対話することができる。つまらないと思った本は、いくら賞を取ってようが、途中でやめていいんだといわれたことがあるので、そうしている。読書もその人との対話だから、人間関係と同じように、合う合わないがある。わざわざ合わせなくていい。そんなことをしていたら、運命の本に出会うチャンスを逃してしまう。出会うべき本には必ず出会うでべきタイミングで出会う、と思う。

前にも後にも、本を読んで、胸の鼓動が高まったことなんてないから、すごいなあ。引きが。こういうのに従って生きていこうと思っている。